結婚三年目。


新婚気分も抜け、飽きが来るとか世間では言うらしい。
そう言えば、昔の歌謡曲に、『3年目の浮気』とかいうデュエット曲があったとか。
3年目だろうが何年目だろうが、浮気なんて大目に見れるものじゃない、などとは思いながらも、そんな心配は自分の夫にはまるで関係が無いことをよーく知っている。
結婚する前も、十年近く付き合っていたにも関わらず、相変わらず仲の良い様子に、仲間内からですら、羨みを通り越して呆れられているくらいだ。
他の友人からは、「イケメンの上に愛妻家で羨ましい」、とものすごい羨望の眼差しを向けられることが多い。「そんなことないよ」とは言うものの、内心、最高の夫だとは思っている。


難を言うなら、少々、収入が少ないくらい。


しかし、別にこれを不満に思うことは全く無い。
夫は遊んでいるわけでもないし、壮大な夢に大枚を叩いているわけでもない。
ただ単に、今はコツコツと下積みをしているようなもの。それだって、少しずつ成果は上がってきており、最近は入ってくるお金も増えた。
まだ、妻が仕事を辞めても食べていけると言い切れるほどではないけれど、名前が知られるようになってきているのは確かだ。
そのおかげで、デビューしたばかりの頃のものも、再版をかけようかという話まで出ているらしい。
夫がどうしてその職業を選び、何を目指しているのかを知っている者としては、そのことをとても嬉しく思うし、ずっと応援してきて良かったと、心から満足出来る今日この頃だ。




あとは子供が出来れば、最高に幸せな家庭よね、なんてことを考えながら、急に友人に呼び出されたカフェへと入った。
短大時代の友人で、底抜けに明るく、感情の発露もはっきりしていて、清々しいほど気持ちのいい女性だ。
彼女もヒカリ同様、短大を卒業後、職場は違うが保育士として働いていて、結婚したのも同じくらいの時期だ。
そのためか、時折会って互いに仕事の愚痴を零したり、旦那の惚気話をし合ったりしている。



今回はどんな話だろう、と思いながら店内をきょろきょろと見回し、ヒカリは小さく「あ」と声をあげた。
彼女はもうすでに来ていて、その顔を見付けた瞬間に、笑顔で声を掛けようとした途端、ヒカリの顔が強張った。

周囲の他の客が引くほど、怒りのような負のようなオーラを漂わせている。
マンガやアニメで言うと、ゆらゆらとした赤い炎を背に負い、髪まで逆立っているような雰囲気だ。


何となく近付きがたいものを感じながら、ヒカリは引きつりそうになる顔を懸命に抑えて、出来る限り明るい笑顔を作って席に着いた。
「久し振り。元気だった?」
いつも通りの挨拶をすると、彼女は殺気立った顔を上げた。思わず後退りしそうになる体を何とか留め、再び笑顔を向ける。
「どうしたの、急に呼び出して。何か機嫌悪いみたいだけど」
そんなことをズバッと言うのもどうかとは思ったけれど、相手が相手だ。うだうだと世間話をしても、さらに機嫌が悪くなるだけだろう。
基本的に美人の部類に入るであろう顔の眉間に、深い皺が刻まれ、正に目が三角の状態になっていて、まるで般若だ。
正直なところ、このままお暇してしまいたいと思った瞬間、般若の目にみるみる水分が溜まっていった。驚いて何も言えずにいる間に、それは一瞬で縁を越え、どっと溢れ出した。
辺りに構わず、突っ伏して大声で泣き始めた彼女に茫然として、何となく頭の片隅に『鬼の目にも涙』なんて言葉が浮かんだものの、それを否定すると同時に我に返った。


「ちょ、ちょっと、どうしたのよ」
さっきまで引き気味だった周囲の客が、何事かとこちらを見ているのがわかる。
泣いている当人は全く気付いていないようだが、正気のヒカリにしてみたら、正に針の筵に座っているような状態だ。
こちらにちらちら向けられる視線に、困った顔で頭を下げながら、何とか友人を宥めようとするが、なかなか泣き止んでくれない。
何故泣いているのかもわからないものだから、どうやって慰めればいいのかもわからない。とにかくこの場を離れたい気持ちでいっぱいで、「とりあえず私の家に行こう?」と誘って、立ち上がらせた。
相変わらず泣き通しだが、それでも素直に付いてきてくれたのは有り難かった。
店を出て歩き始めると、さすがに落ち着いてきたのか、彼女も大声をあげなくなり、しゃくり上げるように何度も鼻を啜った。




このまま何処かの店にまた入るという手が無いわけではないが、そこでまた泣かれては適わないので、ヒカリの自宅に向かった。
丁度良いことに夫であるタケルは、担当との打ち合わせがあるので今日は家を留守にしている。
今なら例え大泣きされても、ご近所まで大迷惑を掛ける、ということにまでは至らないであろう。
リビングに通して飲み物を持っていくと、すぐさま豪快に一気飲みしてくれた。
その様子を見る限り、少しは調子を取り戻してくれたようで、ヒカリはホッと胸を撫で下ろした。





「それで、どうしたのよ、一体」
漸く話が出来る状態になったと、早速本題に入ろうとしたが、再び泣き出しそうな顔になったのを見て、ヒカリは思わず天を仰ぎそうになった。
しかし、彼女はぐっと込み上げてくる涙を堪えたかと思うと、今度は鬼の形相に戻った。
「あんのバカ男ぉっ!!」
ダン、と勢いよく叩かれたテーブルの上で、グラスが飛び上がった。同時に、ヒカリもソファの上でビクリと体を震わせた。
「なあーにが誤解よ! こっちはちゃあんと、証拠を押さえてるんだからね!」
顔を真っ赤にして怒鳴る姿は、正に鬼だった。関わるのも怖い気がしないでもないが、ここまで来て放置する勇気も無い。


ああ、勇気の紋章を持った兄なら、ここから逃げられるのだろうか。





「だから、何があったのか説明してよ。ただ怒ってるだけじゃ、何もわからないじゃない」
ここまで元気になってくると、特に気遣って優しい言葉を掛けたりする必要はない。こうなったら勢いで話してくれる。
思った通り、キッと顔を上げたかと思うと、
「あの男、浮気しやがったのよ!」
紙に火が点いたようにぺらぺらと話し始めた。
かなり感情任せに話しているので、随分と要らない部分や繰り返しも多かったが、大体はこんな話だった。







2ヶ月ほど前のこと、なかなか仕事が忙しくて二人で出掛ける機会も無かったので、久し振りにデートでもしようと約束をしていた日、急に相手に仕事が入って、中止になってしまった。
もちろん、多いにガッカリはしたものの、仕事であれば仕方がないと、渋々ではあるが諦めた。
帰って来た夫は、本当に申し訳なさそうに何度も謝ってくれたので、責める気持ちは微塵も無くなったのだ。



しかし。



それからというもの、何だか夫に妙な行動が増え始めたのだ。
一緒にテレビを見ているときに、携帯に電話が掛かってくると、何故かそそくさと部屋を出て行く。
休みになると、何故か毎週、仕事だと言って出掛けていく。
変だとは思ったものの、昇進が掛かった重要な仕事を任されたのだと言われると、そんなものなのかなと思ってしまう。


だが、同時に疑惑も湧いてくるわけで。


だったらと、別に気にしなくていいから、隣で電話くらいしてくれても大丈夫よ、と言うと、テレビの音が聞こえたりしたら、相手に良い印象を持たれないと言う。
それはそうかもしれないが、なんて思っていると、今度はトイレや風呂にまで携帯を持ち込むようになった。
何故そんなことをする必要があるのだと問い質せば、いつ電話が掛かってくるかわからないから、と言う。
それはもちろん、そういうこともあるのはあるのだろう。しかし、いくら何でも怪しすぎる。



違うという証拠を探すという名目で、こっそり調査を開始した。
携帯は持ち歩かれているから、確認出来ない。仕方がないので、インターネットで調べた調査項目を元に、財布やパソコン、車を調べてみることにした。
すると、一番始めに調べた財布の中に、すでに異常を発見した。
「ペンダント」と書かれた、宝石店の領収書が出て来たのだ。当然のことながら、貰った覚えは無い。しかも買った日付は、例のドタキャンされた日。
わなわなと震えながら、パソコンを調べようとすると、何故かパスワードが掛けてあって見られない。
車内にはこれと言って不審物は無かったが、しばらく観察も続けたところ、ガソリンの減りが随分早いことがわかった。
これらは全て、浮気の調査項目に当てはめてみると、見事に「アウト」のものばかりだった。


状況証拠ではあるが、もう思い込むと止まらない。昨日、怒りに任せてそれらを突き付けると、夫は「浮気なんてしていない、誤解だ」と言った。
だったらこれは一体どういうことなのかと聞くと、言葉に詰まった。
それがさらに頭に来て、詰る言葉を思い付く限り投げ付けた。すると、「俺が信じられないのか」と言って逆ギレされた。



そこからは、怒鳴り合いだった。
完全に水掛け論に発展し、収拾がつかなくなった頃、夫が怒って家を出て行ったのだ。
その後は完全に腹が立って、眠ることすら出来なかったが、とにかく吐き出さないと苦しくてどうしようもなかったので、朝になってからヒカリに連絡を取った。







大体このようなことを、ほとんど息つく間もなく捲し立てた友人を、ヒカリは内心大いに驚きながら聞いていた。
彼女の夫に会ったのは結婚式のときだけだったが、正直なところあまりパッとしない感じではあった。しかし、なかなかに誠実そうな男性で、友人が何故彼を選んだのかよくわかった。
浮気なんて、するような人に見えなかったけど。
とりあえず、そんなことを言えば癇癪を起こして、こちらに噛み付いて来そうなので、その言葉は冷めたコーヒーと一緒に飲み込んだ。



一通りぶちまけて落ち着いたのか、彼女の方も溜息を吐いた。それを見遣って、ヒカリは口を開いた。
「まあ、私は何て言えばいいのかわからないけど、ちゃんと相手の話は聞いた方がいいと思うわよ?」
そう言うと、ギッときつい目で睨み上げられた。
「ヒカリは、あいつが浮気なんてしてないって言うわけ?」
「そうは言ってないわよ。私はその場にいたわけでもないんだし、あんまり旦那さんのことも知らないし」
「だったら!」
「でも、子供達がケンカしたら、そう言うようにしてるだけ。大人でもケンカなら、そこに大して差はないと思うけど?」
さすが保育士と言うだけあるのか、彼女の方もそう言うと黙った。双方の話を聞いて、きちんと諭すのは子供相手ならよくあることだ。
「旦那さんは誤解だって言ったんでしょ? 旦那さんの言うこと、ちゃんと聞いたの?」
出来るだけ優しく、諭すように言うと、小さく「あんまり」と返ってきた。
「怒ってて、話し合いにならなかったのね。だけど、もし本当に誤解だったらどうするの? こんなことで別れちゃってもいいの?」
「それは……」
「嫌なんでしょ? じゃあ、今度は落ち着いて話し合ってみたら? 2人だけじゃ上手くいかないって言うなら、私で良ければ間に入るから」
ヒカリの言葉に、しばらく黙っていた友人も、「そうだね」と言って頷いた。
「ホントに誤解で、浮気してないのに、これでケンカして本当に浮気されたら、バッカみたいだもんね。ちゃんとハッキリさせたいし……ヒカリ、ホントに協力してくれる?」
「もちろん」
にっこりと笑って言うと、漸く彼女も元気を取り戻した。
「ありがと」
少しでも瞳に光が戻ったことに心底ホッとして、ヒカリは多いに胸を撫で下ろした。


本当に、彼女が素直な性格で良かった。これ以上拗れられたら、こっちまでぐったりしてしまいそうだ。


落ち着いたところで、飲み物のお代わりを差し出すと、今度はゆっくり味わう気持ちの余裕が出来たらしい。一口飲んで、ふう、と息を吐いた。
「ヒカリはいいよねえ」
「何が?」
「いい旦那でさあ。イケメンの上に愛妻家、その上家事まで手伝ってくれるんでしょ? 羨ましいったらないわよ」
随分と元気を取り戻した友人は、頻りにタケルを褒めちぎる。彼女だって、大してタケルと面識があるわけではないはずなのに、周囲の人間から聞き囓った情報だけで、かなり妄想を膨らませているらしい。
ヒカリだって、タケルを褒められて悪い気はしない。ちょっと照れたように頬を掻いた。





いつもの明るさを取り戻して帰って行く友人を見送って、ヒカリは大きく息を吐いた。



何だかすごく疲れた。



ソファに沈み込むように座っていると、睡魔が襲ってきた。
こんな所で寝ちゃダメ、と思いながらも、麗らかな春の日差しが差し込んできて、抵抗力を奪っていく。数分後には、穏やかな寝息だけが室内に残った。










ハッとしたとき、ヒカリは一瞬何が何だかよくわからなかった。
もう日は沈んでいるらしく、部屋の中は暗い。
漸く自分が転た寝していたのだと理解したものの、時計を見て首を傾げた。
これだけ真っ暗だということは、タケルがまだ帰宅していないということなのだろう。しかし、朝出て行って、夜まで帰って来ないことは珍しかった。
(打ち合わせ、上手くいってないのかな)


作品が売れるようになったことは、それはもちろん良いことだ。だが、そうなると、逆に自分がやりたいことだけをやっていられるわけでもない。出版者側にしてみれば、売れる作家には売れる物を書いてほしいというのが当然のことである。
もちろん、そんなものに左右されることのないほどの大作家になれば、書きたい物を書けばいいのだろうけれど。


遅くなるなら、連絡が来ているだろうと携帯を見ると、予想通り、遅くなることを謝罪するメールがあった。さらに、夕飯もいらないと言う。
「珍しい……」
ちょっと驚きながら、仕方なしに一人分の食事の準備をしようとして、ふと思い付いた。
(どうせなら、外で食べようかな)
前に見付けた、雰囲気の良さそうなパスタのお店。本当はタケルと一緒に行こうかと思っていたのだが、先に一度行って、偵察しておくのも悪くない。
うきうきしながら出掛けると、夕飯時には少し遅い時間だったからか、席には空きがあった。
一口食べただけで、ヒカリには大満足の味だった。今度は必ずタケルと一緒に来ようと思って、食後の紅茶を口に運び掛けて、窓の外の光景に目を奪われて固まった。




見間違えるはずがない。
人工の色では有り得ない、金色の髪。深い海のような蒼の瞳。精悍な顔立ち。

どうみてもタケルだ。




打ち合わせと言っていたが、どうしてこんな所にいるのだろう、ということもあったが、それ以上に驚愕させるものがあった。
タケルが見知らぬ女性と一緒に、向かいの喫茶店にいたのだ。
タケルの編集は中年の男性だ。代わったとは聞いていないし、確かに昨夜掛かってきた電話も彼の声だった。新人の紹介だとか、そういうことが無いわけではないだろうが、それにしては担当編集者がいないのがおかしいし、言うほど若い女性でもない。
それに、何故かタケルが照れたようにほんのり頬を赤くして、頭を掻いているのもおかしな話だ。


今日、友人の話を聞いたせいだろうか。ヒカリの頭に一瞬にして、『浮気』の二文字が浮かんだ。


慌てて頭を振って否定したものの、窓外の光景から目が離せない。
二人はその後も何やら楽しげに話して、それから連れ立って店を出、何処かへと去っていった。
茫然とそれを見ていたヒカリは、店員の怪訝な顔で漸く我に返った。
慌ててお会計を済ませて店外に出て、気が付いたときには家に戻ってきていた。




ぼんやりとする頭の中で、ヒカリは何とか考えを纏めようとしていた。
きっと、あの人は新しい担当編集者なのだ。前の担当が一緒にいなかったのは、すでに引き継ぎが終了した後だったから。あまり若くないのは……失礼な話かもしれないが、ただ単に老けて見える人だっただけ、もしくは、中途採用で転職してきた人だから。



懸命にそう思い込もうとするものの、胸の中がもやもやする。
一体、何の話をしていたのだろう。
あのどこまでも余裕綽々で、どこか飄々とした雰囲気すらあるタケルが、頬を染めるとは何事か。
沸々と何かが湧き上がってくるのを感じたとき、ふと、昼間友人に言った言葉を思い出した。

誤解だったらどうするの

込み上げてきたものを、意思の力でぐっと抑え込んだ。
そうだ、まだ話もしていないのだから、勝手に決め付けてはいけない。何か、事情があったのかもしれない。
それに、ここでタケルを責めたりしたら、彼女より自分は短気なのではないだろうか。少なくとも、彼女は証拠を集めてみて、そこから結論を出したのだから。


目撃という証拠が無いではないが、誤解ではないとは言い切れない。
そう思い、友人の言っていた調査を思い出した。
携帯と財布は、今タケルが持って出ているし、車は無い。
今すぐ調べられるものとすると、パソコンしかないのだが、これはヒカリも迷った。
パソコンはタケルの商売道具。下手なことをして、壊したりメモリーを消したりしたら大問題だ。
でも、と暫くパソコンの前で逡巡して、パスワードが掛かっているかどうかを確認するだけ、と決めて、電源ボタンを押した。


結果はすぐに出た。
タケルは、しっかりパソコンにパスワードを掛けていた。
一瞬、冷水を浴びたような気分になったが、よく考えればおかしなことでもない。
さっきヒカリが考えたように、誰かにデータを消されたら困るのは確かだし、万が一着想を盗まれたりしたら、堪ったものではない。

これでは、証拠とは言えない。

そう思い、溜息を吐いて電源を落とした。
そのとき、卓上カレンダーに目が止まった。そこに、不可解な印がいくつかあった。
今月の欄に、いくつか時間と場所が書かれている。どう見ても待ち合わせを記してあるようだが、そこに『S』とあった。それも、いくつも。中には○が付いているものが二つ。
すでに過ぎた日付を考えてみると、その日は打ち合わせだと言って出掛けた日だ。だが、卓上カレンダーには、しっかりと『打ち合わせ』の文字が他の日付に書かれているのだ。



ヒカリは愕然として言葉を失った。
浮気しているかどうかは別として、嘘を吐かれたことだけは間違いないのだから。
ふらつく足で、何とか寝室に入ると、ベッドに倒れ込んだ。
じわじわと涙が込み上がってきた。堪えようと唇を噛んだが、それも大した効果は無かった。
枕に顔を埋めて、涙と声を出て来るに任せた。





どのくらい経ったのか、ふと目が覚めると、家の中に人の気配がする。タケルが帰って来たのだと、すぐにわかった。しかし、今の状態で一体どう口を聞けばいいのかわからない。
もちろん、話し合うことは必要だということはわかっていたが、とても口を聞く気にはなれなかったのだ。
そのまま枕に顔を埋めてじっとしていると、背後で扉が開く音が聞こえた。それでも動かずいると、ドアが閉まってタケルが出て行くのがわかった。
枕元の目覚まし時計を見ると、時刻はすでに十二時を回っていた。


タケルはどう思っただろう、とヒカリは頭の隅で思った。パジャマにも着替えず、ベッドに突っ伏している自分を。
少しはおかしいと思っただろうか。しかしそれなら、何故何も声を掛けてこないのだろう。
もう自分に興味が無いのだろうか。
そう思うと、また涙が迫り上がってきた。
ごしごしとそれを拭って、とりあえずパジャマに着替えて布団に入った。


もう何も考えたくなかった。





翌朝。
タケルはすでに起きているのか、書斎から寝室へ入っていないのか、ヒカリが起きたときには隣にいなかった。けれど、キッチンで何やら動いている気配はあるから、おそらく朝食の準備をしているのだろう。
相変わらずいい旦那だと、皮肉に思いながら、のろのろと体を起こした。
寝室を出ると、タケルがすぐに気付いて「おはよう」と笑顔で言ってきた。
「昨夜はごめんね。ご飯出来たから、食べよう」
タケルはにこにこといつも通りの笑顔で、楽しそうに皿を並べる。
何か言いたいのに、何も言えずに促されるまま椅子に座って、食事を始めた。しかし、見事に進まない。
必死に咀嚼して、飲み物で流し込む。
それでもほとんど食べられず、かなり残してしまった。タケルが心配そうに見てきているのはわかったが、それ以上はどうにもならなかった。
ごちそうさま、と言うと、タケルが具合が悪いのかと訊ねてくる。
「大丈夫」と弱々しく笑うと、タケルは諦めたように苦笑した。
「せっかくの結婚記念日だけど……じゃあ、食事に行くのはやめておこうか」
え、とヒカリは顔を上げた。
それからカレンダーを見て、そう言えばと思い出した。


「ホントは、レストランで渡そうと思ってたんだけどね」
そう言って、書斎に一度戻ったタケルの手には、綺麗にラッピングされた直方体の箱が握られていた。
「はい。プレゼント」
にっこりと笑んだタケルの顔と、渡されたプレゼントを何度も見比べて、そろそろと封を開ける。
中から出て来たのは、シルバーのハートにピンクダイヤがあしらわれた、シンプルなペンダントだった。



「実はね、昨日のって打ち合わせじゃなかったんだ」
え、とヒカリはまた声も無く驚いた。まさか、自分から暴露されるとは。
まさかヒカリがそんなことを思っているとは露知らず、タケルは話を続ける。
「編集さんと一緒だったのはホントなんだけどね。奥さんにプレゼントとか結構するって聞いたから、相談に乗ってもらったんだけど……ちょっとイメージ合わなくて」
何も言えないヒカリに気付いていないのか、タケルは照れたように頭を掻いた。
「それでまあ、僕があんまりうだうだ言うから、『だったら他の人間に頼め!』って言われちゃって。まあ、ちゃんと代わりに奥さん呼んでくれたんだけど」
じゃああれは、ヒカリが見た女性は、担当の妻だったのかと、体から力が抜けていくのを感じた。
「いろいろ……なんか褒められちゃって、すっごく照れちゃったよ。なんかね、編集さん、ホントはプレゼントしないんだって」
だからいいのが見付からなかったんだよ、と少し失礼なことを言うタケル前に、ヒカリはこのまま力が抜けきって、床に倒れてしまうような気がした。




しかし、ふともう一つのことを思い出して、力を取り戻した。
「打ち合わせの嘘、昨日だけじゃないよね?」
うん? と首を傾げるタケルに、ヒカリはぐっと唾を呑んで口を開いた。
「書斎のカレンダー。打ち合わせって言ってた日に、打ち合わせって書かれてなかった」
ぎくりとする様子を想像したが、タケルは「ああ」と言って立ち上がった。
「まだプリントアウトしてないから、パソコンで見てもらうしかないんだけど」
手招きするタケルを訝しみながらも付いていくと、電源が入ったままのパソコンを見せられた。
「ヒカリちゃんに一番始めに読んでもらおうと思ってたから、丁度良かったかな」
カチ、とクリックする音がして、ヒカリの目の前にずらずらと文字の書かれた画面が現れた。


縦書きになっているその、一番右側。







『デジタルワールドの冒険』







目をまん丸に見開いて驚くヒカリの後ろで、タケルがくすりと笑う。
「これをプレゼントにしたいって思ってたから、ヒカリちゃんには内緒にしてたんだ。間に合わないかと思って、慌てて他にプレゼントを用意したんだけどね。それが何とか、今朝出来上がったんだ」
そうか、とヒカリは思った。タケルは何とか完成させようとしていたから、昨夜ヒカリが着替えていなかったことを追及する余裕が無かったのだ。よく見れば、目の下にはくっきりと隈が出来ている。
「そこのカレンダーの予定の『S』はね、空さんのことだよ。なかなか予定合わなくて、空さんが一番後になっちゃったんだ」
○が付いている日が、実際に会えることになった日だったらしい。
「まだ前編だけなんだ。でも、だからこそ、これはヒカリちゃんに一番に読んでほしかったんだ」
どうして、と振り返って目で訊ねると、タケルはにっこりと笑顔を向けてくれた。
「ヒカリちゃんが来る前の話だから。これを読んでもらえば、僕達の冒険を、ヒカリちゃんに伝えられるんじゃないかなって、思ったんだ。楽しかったことも嬉しかったことも、辛かったことも苦しかったことも。口々に伝えられることにももちろん意味はあるけど、みんなが語ってくれた、みんなの思いが籠もったこの本を読んでもらうことにも、意味があると思うんだ」


タケルは知っている。ヒカリが、知らない冒険があることに、心底後悔していることを。
風邪を引いてしまった自分を、強く責めていることを。


「現実に時間を戻すことは出来ないけど、みんながヒカリちゃんと一緒に冒険したって、思ってるんだ。だから、ヒカリちゃんにもそう思ってほしいんだ」



昨夜と同じように、どんどん熱いものが込み上げてきた。今度は全く我慢することなく、涙が一気に溢れた。
「ありがとう、タケル君。最高のプレゼントだよ」
出来る限りの笑顔を向けると、照れたようにはにかんだタケルの顔が涙で滲んだ。






「誕生日プレゼントだった」
何がと聞こうとした瞬間、ちょいと胸元からペンダントを取り出された。
「ヒカリが言った通り、話し合ってみたの。そしたら、買ったペンダントって私宛てで。なんか、仕事場で先輩に『プレゼントくらいしろ!』って言われたらしいの。その買った日に」
つまりはただ単にそれだけ。
さらに、電話や車も、彼女へのサプライズを準備するためだった。
先輩達の方が悪乗りしたらしく、誕生日に花火でも打ち上げようということになったらしい。それについての電話が掛かってくるので、当人の前で電話するわけにもいかず、さらに自分で玉を作る手伝いをすることになったものだから、休日によく出掛けていたということだったのだ。




ヒカリは呆れて言葉も出なかったが、自分も同じようなものだったことを思うと、何も言えなかった。
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